2010年3月17日水曜日

横山勘兵衛  宮崎県高岡町人物誌

 龍福寺址より道を西にとり尾根づたひ丘陵を登りて行くと、見晴らしのよい頂上に達する。西には□気立□むる奥山や伊勢の原・東は大淀の流れに添いて高岡の町々を一畔の中おさめる事が出来る。高岡町の人々は昔より、この丘陵の頂上一帯を勘兵衛墓(カンペパカ)と呼びならはして居る.こゝにわが高岡町の横山勘兵衛良豊は永久に眠っている。


 横山勘兵衛とは如何なる人か。彼は江戸時代の中期於ける我が高岡郷の誇ら物であった。そして富豪であった。彼の祖元は田部姓土持氏の流れとも又、小野姓とも云われて居るが嘘ではでない。慶長五年高岡郷□取文の時、横山三郎兵衛良充、本庄より高岡に移住し商家となり、代々高岡町居住とあり。勘兵衛はその五代目に当る。父は孫左衛門良□□は、向高の若松□太夫の女とあり、彼は今年より数えて二百五十二年前、五代将軍綱吉の元禄十五年拾度赤穂義士の仇討ちの年に産声をあげた。そして十一代将軍家斉の寛政元年八十八才の長寿を以て歿した。故にその活動の期間は極めて長かった。彼の在宅は新町の東側の中程にあったと伝えられて居る。叉十文字の角の所に堂々たる邸宅家倉ありしと云はれて居る. 藩政時代わが高岡郷の町方の人は町人なれ共警察権の一部を握り、持主の十手を預かる警官であった。罪人を捕縛する与力同心であった.何しろ高岡郷は、薩藩の鉄のカーテンなる去川の関所の外に建てられし大郷なるだけに、他藩より薩藩の事情をさくらんと探偵、隠密、其他色々の者が忍び込んで来た。それを高岡町のメアカシ(目明)
目睨むと□□破ってヒツ捕らへた.十手、早縄、鎌手、スネ当、一刀をたばさんで、「御用ゾ」と飛び込む姿は想像るだに勇ましい。横山勘兵衛は此役を勤めて居た。彼が笠原弥右衛門と云ふ強勇無双の盗賊を捕へし伝えが今に残ってって居る.弥右衛門は段□御科牧場の、馬泥棒の常習犯人であった。彼は盗み出した馬を、蜜林の□谷を伝ふて運んだ.そして岸壁の所に来ると、強力なる彼は縄で吊しておろしたと伝へられて尽る.併し中々彼をとらへる事は出来なかった.然るに偶然彼が高岡にやって来た。かくと知った勘兵衛は謀を以てとらえんとたくみ我が家に誘ふた.
土蔵の中にだまして誘ひ込んだと云うはれて居る。そして大に御馳走し酒をすヽめた。謀とは露しらず、弥右衛門は大に飲んで泥酔して横臥した所を勘兵衛は、此時とばかり「御用ツ」と声かけ組みついて縄をかけた.流石の弥右衛門も最早及ばなかった。彼が打首になったことは勿論である.此話は高岡郷藩政時代勘兵衛捕物談として今に伝わって居るが、勘兵衛は、他にもかゝる功績が多かった様である.
 笹原弥右衛門末期仁臨み、大に勘兵衛を怨んで、「おのれ助兵衛おれ騙し討ちにしたな、覚え居れ呪ってくれ                                                                                  るぞしとょった.モれから色々た~サがあったとの蕗があるが、助兵葡はかゝる馬弼持の幣束魔の速舌などに篤をくさらす腰抜けではなかった。彼は寛政元年に目出度い米寿の高齢に遵して大往生を遂げた。


 勘兵衛は神仏の信仰が深かった.高岡名勝志の法華岳寺の宝物記の条に時計壱個寄進者、高岡町、横山勘兵衛とあり。又、爪生野八幡の屋根銅板に横山勘兵衛寄進の銘記ありとなり.又、狩野の横山氏所蔵の文書中にも勘兵衛布施の寺院の受領文書数通あり。彼の信仰厚かりしと共に、その富豪なりし事も推して知るべし。
 勘兵衛の至孝 寛延四年父孫左衛門、八十六才を以て卒す.勘兵衛為に建てし墓石は、彫刻の枠をつくして居る。
又、其の三回忌に父の菩提を弔ふ為に建てたし、釈迦像には傍の記念時時□、宝□三□□二月二十二年孝子横山勘兵衛
と刻してある。
 苅野の横山氏所蔵の文書中に示現流問書一巻がある。勘兵衛時代のものと思はれる。彼が武道のたしなみ深かりしを知る.同時に町方に於いても剣道等武道の修行さかんなリし事を証する材料である。
 飯田山口に勘兵衛新田と称すち田がある。勘兵衛の開墾田と云はれて居る。彼はかゝる事にも努力せしにや。披は醗造業を営んだと云はれる。勘兵衛逝いで首六十五年、世は幾変還をかさねた.併し我が高岡町の勇士横山勘兵衛 (空量山寿徳居士)の名はながく、高岡郷士史にとどむべきである.


 付記。笹原弥右衛門は、悪党ながら、強力無奴.強情我慢の勇士であった。彼が密林中の絶壁で馬を吊るしておろした事は、前述の如くであるが、彼は又一の谷の戦の鷹越えに於ける畠山重忠の如く.蜜林中で馬を背負ふたと云ふ事である。彼は石代の出口の□の□□近で「ナプリ殺し」にされたと云はれて居る。始め釘の植えてある板の上を歩ませられた。「痛いか。」と聞いたら「何の恰度藁の切りあとを歩く様だ.」と弥右門は囁いた。今度は背の肉を割いた。弥石衛門は「涼しい、よい心地だ。」と云った。最後に鉛をとかせし熱湯を背の傷ロから注ぎ込んだ。此時始
めて称右衛門もこたえたと見えて、「クーン。」とうなった。首は撥ねられた.かゝる伝説は伝説として伝え渡し。
 此篇は、田尻先生、川野助役、高校上村先生、小学校山崎政□氏等、炎天下勘兵衛墓に実地検証を遂げ下されし賜称なり。郷士史を光輝あらしめ確実ならしめんとの御熱心の賜物である。叉狩野の横山ケサノ刀自の関係文書を貸与されし賜物である。

宮崎県高岡町人物誌 より

     ルーツ 横山勘兵衛

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